清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
日本ではもうすぐ花の季節がやってきます。桜は原生林とはならない種であり、樹齢も百年となることは稀です。人の手によらなければ桜の園となることはありません。花の吉野山が平安時代からの人々のたゆまぬ営みの結果だと知ると、やはり日本人にとって桜は格別のものがあるのですね。わたくしがもっとも華やぎを覚える桜を詠んだ歌は、冒頭の与謝野晶子の桜月夜。
数年前のことになりますが、職業柄もあって「美の本質とはなんだろう?」としきりに考えこんでいた時期がありました。何とかたどりついたのが「美は表象ではなく意志である」というフレーズです。意志とは「美しくなりたいという気持」です。この時はそれでよかったのです―今も間違ってはいないつもりです。
近ごろになって“いし"は志を立てるだけでなく、沈みこんで深く思慮する意思もあることに気づきました。どう違うのでしょう?
晶子の桜月夜の歌は処女歌集の『みだれ髪』第1章臙脂紫に所収されています。どんな色かわかりますか? 黒色に沈んだ赤です。彼女は当時20歳、妻子ある師の鉄幹を恋してい
ました。第1章の6番目が
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
(おみなはたち、梳れば黒髪は艶めき、眩しき春の誇り美し)
です。まさに若さを露わにした恋愛の挑発意志です。そして9番目は
臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命
(血のさわぎ、春の思ひは突きあげる、盛りの身体誰に託さむ)
深く沈潜した愛の意思が、おどろおどろに思い人に深い圧力を加えます。
そして、桜月夜はこの章18番目。京都祇園から円山公園を抜けて寧々の道、三年坂のかなた音羽の塔上には朧の月が…。すれ違う人々は花に管弦に酒に、また異性との道行に頬赤く、皆うつくしきでありましょう。
晶子は一人です。しかし今日の京を経て上京しようとしています。その結果鉄幹を略奪するのですが、この夜は恋の炎が燃えていたはず。美しさは凄絶だったに違いありません。―わたくしは臙脂紫の色は女が女である色と思ったのです。