朝5時半。まだ空も眠っているようなラオス・ルアンパバーンの朝。私は静かに宿の外に出た。
空気は湿っていて、どこか母体のようなあたたかさがある。その中にすっと浮かび上がってくる袈裟の色。オレンジとも金とも言えないような柔らかな輝き。──そう、托鉢の時間だ。
ラオスのこの古都では、今も仏教の伝統が深く息づいていて、町の人々は毎朝、僧侶に食を捧げる。「托鉢」は僧侶が村の人々から施しを受けることで、信仰のエネルギーを循環させる行為だとされる。私もその朝、手のひらに少しのお米をのせて、連なる僧たちにそっと差し出していった。──それだけ。たった、それだけの所作。
だけど、不思議なことに心がものすごく震えた。言葉もない、音もない、ただ静かに連なる袈裟の列。朝靄の中、裸足で歩く僧侶たちの足音。そのすべてが魂に触れるような感覚だった。
日本にいると、いつも“何か"に追われている。スケジュール、通知、義務、情報……。
気づかぬうちに心の中の「余白」がどんどん埋め尽くされていく。
でもこの托鉢の朝、私は初めて余白にある力を感じた。僧侶はしゃべらない。
信者も多くは語らない。ただ、施す。ただ、受け取る。
その中には、ある種の官能──静けさの中に宿る、五感の目覚めのような感覚さえあった。
南国の音も香りも湿度も、すべてが肌に直接触れてくるようで。
私は、これこそが「センシュアル」という言葉の本質なのだと思った。
センシュアルとは、何かを強く求めることではなく、ただすべてを感じること。思考ではなく、感覚。意図ではなく、存在。バンコクの寺院でも似たような光景を何度か見たことがあるけれど、このラオスの朝にはより濃密で原始的な何かがあった。
東南アジアの仏教圏では、空白こそが“徳"や“滋養"として大切にされている。その“空"の思想が、この托鉢の中にも息づいているのだ。歳を重ねるほどに、私は「空白のある人生」こそが贅沢だと思うようになった。すき間に、風が通る。間に、香りが立ち上る。音と音のあいだに、祈りのような静けさが広がる。
「間」とは、もしかすると、神さまの居場所なのかもしれない。