日本医学界にはいくつかの業界用語が存在します。「増悪(ぞうあく)=悪化している」「経時的(けいじてき)=時間と共に」「暴露(ばくろ)=有害物質にさらされる」何より皮膚疾患名の難しいことったら。進行性指掌角皮症、毛孔性紅色粃糠疹、乳頭状汗管嚢胞腺腫、顔面播種状粟粒性狼瘡 etc.……。
日本における西洋文化との接触は、1543年種子島に漂着したポルトガル人が持っていた鉄砲から始まります。1549年には宣教師もやってきて、国内の天主教信者数は16世紀末に100万人に達しました。鉄砲と信仰、戦闘の勝利と魂の救い。戦国時代は文化を愛でる余裕なんてなかったのでしょう。
一方中国では1581年、イタリアの宣教師マテオ・リッチが来たことを契機として洋学大輸入の時代となりました。明末清初の時代、中国はキリスト教を禁圧していませんので多くの宣教師が渡航して、実学に長けた知識人としての多岐にわたる文化(数学・天文・暦法・農芸・水利・国防など)を扶植しました。その集大成が1717年に西洋の三角点測量法によってつくられた中国全図、『康熙皇輿全覧図』です。そのあたりから清朝は統治者の無知蒙昧によって、外への目をそらし鎖国に閉じこもってしまったのでした。
丁度そのころ、江戸幕府八代将軍吉宗は実学奨励の意図から(耶蘇教関係を除き)洋書の禁を緩めました。西洋諸国ではオランダ一国だけと通商していたことから、洋学はすなわち蘭学となり、蘭学はまず医学界で発展して諸科学へ広がっていきました。洋書の旺盛な輸入が現出します。ただし、この洋書は原書ではなく「漢訳された洋書」でした。初期の洋学は漢字が読めることによって、中国での洋学大輸入の蓄積を活用して、横文字習得の面倒を簡便にすることで進展しました。
そうだったのですね。こっちが戦国とか、切支丹弾圧とかでバタバタしていた時、横文字をコツコツ漢語に翻訳された中国の人たち。ご苦労さまでした。漢字文化圏ですから、意味は通じます。日本医学界が、漢方医学から西洋医学に、素早く転換できたわけの一つがわかりました。省力化のおかげです。持つべきは良き隣人! 有難いことです。