もう3年前になりますが、「パリマダ」こと『パリのマダムに生涯恋愛現役の秘訣を学ぶ』という本を世に出しました。そこに新しく提出したカテゴリーが“センシュアル”でした。
私は皮膚専門医として、トータルな女性の美しさとはどんな言葉で表現されるのだろうとずっと考えてまいりました。「娘十八番茶も出花」と言われるように、年頃になれば女性はそれぞれに美しさの姸(けん)を競います。本能の発現というかエロティシズムからのセクシーです。これに対して「臈長けた美人」という言葉は洗練された経験から滲み出るエレガントといえます。しかし、セクシーとエレガントの2つの観念には飛躍がありすぎて、むしろ対立しているかに思えます。
いまや“アンチエイジング”は花盛りです。齢を経てもセクシーでいたいのはわかります。けれど美魔女などと呼ばれても、本人が思っているほどには世の中は評価してくれません。セクシーは何としてもエレガントに遷移する必要があります。どうすればそれができるのかを考えて、たどり着いたキーワードがセンシュアルでした。思いが深まると新しい発見が現れてくるものです。センシュアリズムは美学としては「官能主義」や「肉感主義」と訳されますが、直観的には感覚中心主義です。大正から昭和初期の日本文学の潮流に新感覚派がありましたが、その英訳はneo-sensualism。代表作家は川端康成や横光利一です。
康成の『伊豆の踊子』冒頭「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追って来た」には、情景に色彩があり音が聞こえ動き見えます。
その生身の肌感覚こそが感性を鋭く磨き、五臓六腑を熱くさせて肉体を活性化するのです。スキンシップは和製英語といわれますが、肌と肌の触れ合いも大切なことです。愛する人たちのハグや手繋ぎは命の熾り火を持続させます。肌に手を20秒触れているだけで、愛情ホルモンのオキシトシンが放出されるそうです。
センシュアリズムはセクシーとエレガントを繋ぐ絆なのですね。