ティーンエイジャーだった頃、アンコールワットで消息を絶った日本人戦場カメラマンの足跡を追ったドキュメンタリーをTVで見たことがあります。当時のカンボジアは“解放戦争"を戦い、権力を奪取したクメール・ルージュの支配下にありました(1975~1979年)。この間、独裁者ポル・ポトは史上稀に見る恐怖政治によって、200万人ともいわれる自国民への大虐殺を行いました。彼らは、“新しい社会"建設のためには、伝統的な歴史や価値観を持っている者を抹殺しなければならないと信じ、宗教家・芸術家・知識人・外国人・都市住民などを根こそぎ殺戮したのです。
アンコールワットは天上界の曼荼羅を地上に再現したもので、12世紀初頭スーリヤヴァルマン2世によって30年以上の年月をかけて建てられたヒンドゥー教寺院です。熱帯の深い密林の中の一本道を進んでいくと、奥にひときわ堂々と聳え立つ石造りの尖塔が見え、古代文明が今も息をしているような美しさで迫ってきます。
青年カメラマンの名は一ノ瀬泰造。1947年11月1日佐賀県武雄市生れ。武雄高から1966年日芸写真科入学。カメラを離すことなく激動の日大闘争を撮り、また故郷の隣町磁器の里で「有田の匂い」も撮っています。大卒後UPI通信社で勤務、試用期間後不採用となると、フリーランスの戦場カメラマンになることを決意。時はベトナム戦争真っ盛り。「いい写真を撮って有名になりたい」、青年の客気かもしれません。でも、若さはそれでいいのです!1973年11月22日か23日、泰造は「どうしてもアンコールワットを撮りたい」と思った(に違いないのです)。それが「地雷を踏んだらサヨウナラ」の友人への手紙に遺されています。戦争の理不尽と美しく妖しい古代の笑み(Archaic smile)。絶望的懸隔の狭間で彼は美を欲したのでしょう。アンコールワットの1.5㎞手前でポルポトの兵士に捕捉され、「態度が反抗的だ」と11月29日処刑されました。アンコールワット北西10㎞のブラダックに埋葬された遺体は、1982年、現地に赴いた両親によって確認され、彼はいま故郷で永遠の眠りについています。合掌。