私は「人間とは男と女に二分される」という荒唐無稽な二元論を憫笑し、これらは生物学や発生学のみならずEthos(=道徳的気風)をも含めて、連続した存在として科学的に疑う余地のないものとして受け容れてきました。両端に女の中の女と男の中の男を据え置き、ほとんどの人はその中間に存在する、と考えたのです。そうしたところ、数年前に突如新しいイメージがインスパイアしました!̶男と女は円環構造による連続性をもつ存在である。
私はどっちかというと男脳タイプだと思います(現実の脳において男と女の気質的違いはありませんが、説明の便宜上)。男脳タイプだからといって、いつも男っぽいわけではないし、恥ずかしいほどしおらしくなることだってあるのです。中性的というよりより女っぽい男性だって、時と場合によってはとても男らしくなることもありますよね。
だけど、私が女っぽくなったり、中性男性が男っぽくなるのは、なにも不思議ではありません。人間だったら当たり前のことです。ヒト以外の哺乳類がどうかはよくわかりませんが、男と女が場面によって変貌し、あるいは変態(様変わり)する。まさにヒトならではのエビデンスと言っていいのです。 君子豹変、連続する円環構造は遮断されません。この世はChaos(=混沌)であり、仏教の教え(法輪)や仏陀の悟り(曼荼羅)は深遠な深みがあります。大宇宙は螺旋ループ構造といわれます。量子力学的としては女と男の連続性どころではない。人間とそうでない動物、動物と植物、さらには生物と無生物の連関性さえも説明ができるのです。
動物の定義が「従属栄養の生物」であるように、他の生物がつくった栄養を糧として生きている。生きるがために運動する生物、ことに人間においては他者の命を貪って命をつなぐ。宏大な宇宙の繋がりの中の一粒の粟に過ぎないとも思えるのです。
話が飛び過ぎて申し訳ありません。ともかく、男と女の間に暗くて深い川なんかは存在しません。想像力を喚起しましょう。一粒の粟でもたくましい未来は想像できる、まして男と女の未来なんか“Le Jour du vin et des roses" (=酒と薔薇の日々)に決まっているではありませんか。